2009年12月13日日曜日

ていちゃんが、教えてくれたこと。 (またまた、長いですぅ。。)

久しぶりに、昔話です。メンタルに、ハンディキャップのある子たちと、関わっていた時に、またまた、子供の生きざまから、教わった、お話しです。

その子は、目が見えず、重度精神薄弱で、さらに、自傷(自らを傷つける行為)の激しい子でした。家で、面倒を見切れるはずもなく、ご家族は、出かけるにも、一人家に残しておくことができず、でも、出かけなくてはならず、残さざるを得ない時は、動きまわれないように、拘束せざるを得なかった。。。。。。

学園に、初めてきたときは、顔、頭が自傷行為で、傷だらけ。。近づく人には、頭突きをし、物投げも、ひどく、上履きや、歯ブラシを、とんでもないスピードで、電灯やら、窓ガラスやらに、たたきつけるように投げ、破壊行動と、判断される行為も、持っている子でした。

外作業とかの時に、地面に、石とか、板切れとかが落ちていて、それがたまたま 手に触れると、すかさず拾い、それで、自分の頭を、がんがんたたいたりして、血を流す場面が、学園でもはじめの頃は、多々あったそうです。

こういう子供達には、普通(何が普通か??という問題もありますが。。)というか、一般的な言語指導は入りません。なんせ、言葉の”意味”での、指導は、できないわけですから。

でも、自傷や、他傷、破壊行動や、強烈に強いパターン行動は、なんとか、生活とかかわりの中で、軽減したい。

一つ一つの行為が、どういう場面で、出るかの、決め細やかな観察。そして、それを、どうとらえ、どう反応するか。を、関わる人間の間で、どう統一していくか。。が、大切なポイントとされていました。

(アプローチ、タッチを統一しないと、子供達が、混乱するのです。この先生の時は、この行為が、許された、でも、こっちの先生は怒った。。とかでは、こちらが求めていることが、伝わらず、ただ人を見るだけ。。になってしまうからです。)

まずは、マイナス行為が出た際、一切騒がず、声を上げず、静かに、状況だけに対応するようにしました。(傷を作ったら、それは手当てするものの、声かけは一切しない。ほぼ、マンツーマンディフェンス状態で、他の子に、危害が及ばないように、注意し。。。。この、状況をさりげなく作りださない。。ってのは、ものすごく難しかったりします。) 

そして、同時に、外作業で、ていちゃんが、なんの気なしに、草むしりをした瞬間、『お~~えらいぞ~。すごいな~。草が、むしれたのかぁ~~~!!』と、大げさにほめて見たんだそうです。そうしたら、その日以来、外作業に出たら、一生懸命、草をむしり始めた。 お皿や、食器を、静かに、こっちから、あっちに、動かせたとか、歯磨きの後に、コップを、所定の位置にしまえたとか、そういう、些細な日常生活の中での、動きを、いちいち、全部、ていねいに、ほめていったのです。ていちゃんは、そういう些細な行為に、すこしづつ、意識が向くようになりました。一つ一つの動きを、一つ一つ確認され、認められ、ほめられる。一日が、そんな風に、回るように、すこしづつ、変化していったのです。(詳しくは書ききれません。24時間対応の施設で、何ヶ月も、何ヶ月も、長い時間の中での、試行錯誤の結果です。) 

ていちゃんにとっては、一般に、大人が、『この子は悪いことしかしない!』と、意味づけて解釈されて、怒られ続けていたその行為は、”悪いことをするため”、にしていたわけではなく、かかわりと、反応が欲しかった上での、行動だったのです。だから、親や、周りが、一番大きな声で、一番、大きく反応してくれる (さわぎたててくれる)ことを、一生懸命、し続けていたのです。(それが、驚きの叫びでも、怒りの声でも、何でも。)でも、同じような行為を繰り返すうちに、それが、本人の 人を図り、人と関わる、そして、人を楽しむ?方法のパターンになってしまっていたのでした。。。。己の行動を、喜ばれたり、ほめられたり、認められたり。。という、心地よいパターンでの、人との関わりを、それまで、意識できるような生活を、送ってきた体験が限りなく少なかったのでしょう。

自分の頭を、勝ち割るように、殴り続ける行為も、痛みや、悪さを望んでのことではなく、ふとしたきっかけで、身につけた、もっとも効果的な、(そして捨て身の)呼びかけだったのだと思います。 人との関わり方のバラエティーを知って、別な方法でも、人と交流できる時間が増えて、頭や顔の傷は、薄れて行きました。 (そういう子は、他にも、少なからずいました。)

この学園で、働いていたとき、どうして、この子達を、精神薄弱と呼ぶのか、とても疑問でした。

なぜなら、彼らの、感性は、一般的に、”普通”とくくられる人たちより、何倍も、繊細で、深く、そして、時に、生い立ちのなかで、よじれ、複雑になっていました。ぜんぜん、薄くも、弱くもないのです。。。

このていちゃんは、目は見えなかったけど、耳がとてつもなく良く、周りの人を、ちゃんと、声や、足音で、判別していました。私も、新人のとき、そばを通りかかっただけで、『新しい、ちょろい先生が来た!? ちょいと、こいつの反応をうかがってやろう!』と、試され、上履きを、天井に向かって、思いっきり、投げつけられました。その行為をきっかけに、私は、ちょっと、話しかけてしまい、(しかりの声かけではなく、やわらかくですが。。)これは、すぐ後に、大失敗だと、気付きました。なぜなら、またまた 反応を求めて、私が、通りかかったら、100発、100中、上履きが、空を飛ぶことになってしまったからです。私が、かかわり方を、改め、その行為はさりげなく、無視し、別の場面で、ちがった、声かけするようにして、しばらくしてから、上履きは、飛ばなくなりました。

人は、人との関わりの中に、はぐくまれ、生きている。。そばにいる人に、反応して欲しい。関わってほしい。声をかけられたい。関わりたい。てい君の、そんな心の叫びが、私に、大きく響きました。。

今だに、うまく言葉には、できませんが、何か、大きな大切なことを、教えられた、気づかされた、再認識させられた、体験談です。
 
もう、20年以上、前の話です。短い時間しか関わっていなかったけど、多くを学びました。彼ら、彼女らが、沢山の周りの大人を、ある意味、深く育てる人生を送っていたことは、間違いなしです。方法は、ちょっと、一般的ではありませんが。

******** ちょっと、話の方向は変わります。。****** 

良く、母が言っていました。 人は、人の間に生きて、初めて人間になる。。。。。 

全ての、 子供達が、はぐくまれ、自らの生命力を開花して、育ち、パワフルに生き抜いていかれる ”人間環境” を、大人は、ちゃんと作りだして、行きたいですよね。 そして、私達も、きちんと、楽しい大人、していきたいですね。 (私 個人の大きな希望でもあります。) 

たぶん、『普通』と、大人がくくる子供の育ち方にも、同じようなことが言えます。子供は、叱られているだけでは、良いことをする子にはならないのです。 何が、どう、良い事で、良い事や、心地よい関わりが出来たときの、『快』の感覚を知って、初めて、良いことをすると、気持ちがよい。と、学ぶんだと思います。 『叱る』行為をなくす必要はありません。どうしたって、叱らなくてはいけないことだってあります。でも、なぜ、どうして叱られたかが、子供に分かるように叱り、その行為が改まったり、良い行動が出た時に、叱った以上に、認めることで、良い事に意識が向くのです。叱られて、反省して、行動を改めたのに、その変化や、行為に、だれも、気づかず、認めてくれず、流されちゃったとしたら。。。子供の気持ちになったら、分かりますよね。。

アプローチ、タッチの統一にも、同様なことが言えます。 同じ行為をしたのに、お母さんは怒ったけど、お父さんは、笑ったとか、A先生は、カッカと怒り狂ったのに、B先生は、許してくれた。。とか、同じ行為をしたのに、今日のお母さんは、機嫌が良くて、見逃してくれたのに、明日になったら、怒り狂った。。とか。 こういう環境の中では、子供に、良し悪しの基準は育ちません。ただ、人の顔色や、状況を見る天才にはなりますが。。。

余談ですが、『叱り』と、『いかり、おこり』は、根本的に、違います。子供をしつけたかったら、ちゃんと、『叱れる』大人にならないと。 叱りには、”教育的人間愛”が、必ず付随します。 なぜいけないのか、なぜ、叱るのか、どうなって欲しいから、叱っているのか、理由と、描きがある上での、行為です。

いかりと、おこりは、いかっている、おこっているその大人当人の、”不快感” しか付随していません。不快感を、直球でくらうことが、心地よい、人間はいないし、他人の不快感で、善が育つとは思えません。人間には、己を守ろうとする本能がありますから、無意識レベルでの反応は、そこから、『逃げる』。ですよね。(現実行動として逃げるか、精神的逃避かは、事と次第ですが。。) 逃げるマインドセットの子供を、不快感の塊のエネルギーが追いかけても、そこに、教育や、人間愛や、プラスのエネルギーは、生まれませんよね。。。。。

親になる。親をする。。。って、実は、世界で一番難しくて、大変で、貴重な ”人”を、育てる。というお仕事。 核家族化が進み、おばあちゃんの知恵なんて、継承されなくなった現在、親教育。。っていうのが、実は、学校教育より、幼児教育より、手前で、さらに、大事なんじゃないかなああああああ。。と、思う今日このごろ。  (偉そうですみません。 私も、まだ、親は、15年弱しかしていません。 結構、良い娘に、恵まれていて、彼女に、助けられたり、なだめすかされたり、気づかされたりして、日々、心、感性は、じたばたしていますです。。) 

そんな じたばたの私ですが、人と関わり、育て、育てられる時、たぶん大切な事は、ちゃんと目を見て、向き合うこと。心の目と、耳、五感、六感全て開いて、使って、関わること。 コミュニケーションは、キャッチボールで。(同じ目線で、双方向。) 一方的に、型はめ (自分のお人形状態にして、自分の思い通りの人に仕立てるために、コントロールを入れること) したり、決め付けたり、短絡的な評価をしないこと。。 一緒に生きて、一緒に成長すること。じゃないのかな。 と、個人的には、思っています。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

コミュニケーション(会話という意味だけでなく。)が得意ではありません。
時折、痛切に感じさせることがおきます。
へこんでばかりもいられませんが…。

“+”

小粒 (こつぶ) さんのコメント...

そうですかぁ? 自分で、得意じゃないって、決めちゃってるだけじゃないの?? 回りの人と、いつも、いつも、上手く通じて、つながっていられる。。ってのは、神業かも。 私も、時々、自分勝手に解釈して、勝手に落ち込んで、勝手に立ち直ったりしています。 じたばたしても、事が、描くように、進まなかったり、理解に苦しんだり、動けなかったり、動かなかったら、最後は、天に、任せます。。。(結構、この『放つ!』を、覚えると、快感だったりして。ちゃんと放つと、天が、味方してくれることが、多いような気がします。) 

ありがたい さんのコメント...

型にはまったコミュニケーションって本当にないのですね。千差万別,各々に合わせた接し方ができると言うのは各々の人権や人格を尊重してこそ出来ること。時間だって掛かる。ていちゃんには会ったことはないけど小粒さんを通してお話を伺える幸せ。こんな私も人とつながっていられることにていちゃんのお話を読んで改めて感謝いたしました。宝ですね。みんな本当にありがとう!

小粒 (こつぶ) さんのコメント...

ありがたいさんへ。本当に、ありがたいですよ。五体満足で、言葉で、コミュニケーションが、取れる。。っていう、デフォルトが、一般人には、あるだけでも。でも、時として、逆に、言葉に頼りすぎたりしてしまうのかもね。
心や、感性の、コミュニケーション。メッセージを発したり、一生懸命受け止めて解釈したり。 そうやって、人は、目に見えない、つながり。を、手に入れていくんだろうね。