2010年2月1日月曜日

全ては、2月1日に始まった。 (いつも長くて失礼してます。。)

今日の私は、過去の私の全ての時間の先端に位置している。

カナダに来なかったら、今の生活は無かった。 光に出会うことも、燈に恵まれることもなかった。

カナダに最初の最初に、来たのは、YMCAで、水泳を教えていて、4年目に、それまでの水泳のリーダーが所属していた体育部と、キャンプを遂行していた、青少年部が、統合されて、健康教育部になり、水泳リーダーでも、キャンプリーダーができるようになり5年目の、大学4年の夏休みに、健康管理室に張り出されていた、『カナダアドベンチャーキャンプ、リーダー募集!』に、応募資格があって、たまたま、一般リーダーでは、一番長いキャリアで、 Yに、貢献!? (はまってて) してたことも、多分考慮されて、リーダーに選ばれたことがきっかけだった。

Vancouver YMCAと、横浜Y の、共同企画の、キャンプ (ホームステイと、プライベートキャンプ場での、日加合同キャンプ) に、無謀にも、英語のまったく出来ない、小学生4-6年生、30人を引き連れてカナダへ出向く、引率リーダー(計3名)の一人に選ばれたのでした。。
1984年、Vancouver が、2年後に開催する、『Exspo-交通博』のために、スカイトレインの建設に着手を始めようとしていた夏に、3週間弱の、カナダ滞在をしたのです。。。

滞在中の、キャンプでの、異文化体験、カルチャーショッ~~~ク!!!の話も、てんこ盛り状態で、ありますが、とにかく、そのキャンプで、この国に 『恋し』 日本帰国後、『カナダ病』と、家族にも呼ばれるほど、カナダにほれてしまった経験があったから。。

メンタルチャレンジの、子供達との3年の暮らしで、かなり磨り減った私を、カナダの青い空が、呼び戻したのは、1988年でした。。

と、考えると、YMCAに、入ってなかったら、今のカナダの暮らしはなかった。

つまり、宅浪してなかったら、Yにも、行ってなかっただろうから、今のカナダの暮らしはなかった。

そして、水泳部に入ってなかったら、水泳リーダーなんて出来なかったから、今のカナダの暮らしはなかった。

水泳部は、両親にかなり、強引に進められ、説き伏せられて 中学入学と同時に入った。 6年生の時の、友達とは、『一緒に、バトミントン部に入ろうね~。』って、約束していたんだけど。。。(6年生の時の担任が、放課後、希望者を集めて、バトミントンを教えてくれてて、それに、仲良しみんなで行っていた。。。から。)

なぜ、両親が、そこまで、強く言ったかというと、バトミントン部じゃ、右手しか使わず、右手ばかりが鍛えられてしまう。 あんたは、左手を、使い、鍛えないといけないから。。というのが理由だった。。

あのとき、両親の助言を、素直に聞き入れる状況になくて、バトミントン部に入ってたら、今のカナダの暮らしはなかった。

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私は、小学5年生の時、学校の体育の授業中に、鉄棒から落っこちて、左ひじを、複雑骨折した。 

その日の体育の授業は、『サッカー』だったんだけど、チームごとに、練習試合してて、私は、待ち時間に、サッカーボールを、校庭の際の、壁に、蹴ってぶつけて、バウンドしたのを取りに行って。。って、遊んでいた。 バウンドしたボールが、近くにあった、低鉄棒の向こうまで、行ったら、鉄棒を、ジャンプして、飛び越えて、ボールをとりに行って、遊んでた。 

何回かしているうち、飛び越えられてた鉄棒に、足の先っぽが引っかかって、頭から、落ちていきそうになり、それを食い止めようと、左腕が、突っ張ったまま、地面に、直撃。 ひじを伸ばしたままの状態で、手のひらを、思いっきり、地面に、打ち付けて、その衝撃で、ひじの所で、骨が折れたのでした~。 『ベシッ~~~!!!』て、音がしました。 (柔道の受身は、身についていませんでしたぁ。。。)

それで、ご近所の、ぼろ~~い木造の、廊下を歩くと、きーきー言うような、病院に入院。 折れている腕を、むぎ~~って、引っ張られて、レントゲン。 おまけに、手術のできる先生は、数日後まで、来ないとかで、何日か、そのまま、待たされた。 おみまいに来た、いとこの、てっちゃんは、手術。。って言葉に、帰り際、『死なないでねぇえええええええええ!!!!。』って、廊下中に、とどろき渡る声で、叫んで帰り、全身麻酔で、白目向いたまま、手術をされ、(目くらい、ちゃんとやさしく、閉じさせてよ~。) 手術室の外で、待ってた、担任の先生は、その半分開きっぱなしの、目を見て、貧血起きそうになって、帰り、あげくの果てに、冬で、インフルエンザが、はやっていて、入院中の人に風邪を移してはいけない。。と、クラス中の友達が、『おみまい禁止令』で、だれも、来ず、私は、人生で、一番!?(って、おおげさ~) 小さな心に、『孤独!』 を感じた日々。。。を送ったのでした。

母は、毎日来てくれたけど、母が帰ると、病院の部屋の白い壁を、じ~~と、見て、時間がたつのを待っているのが、悲しかった。 (そのころ、病院の部屋に、テレビなんてもんはなく。。)廊下の向こうのトイレに歩いて行こうとすると、全身ボイラーの火で焼けどして、入院していた、頭、顔、腕、全部、包帯で、ぐるぐる巻きの、パジャマの、まじ、ミーラみたいな おじさんと、一度ならず、すれ違って、全身、身の毛がよだつほど、怖かった。

手術後何日か目に、抜糸。 『女の子だし、傷がひどく残ったら、かわいそうなので、細かく縫わず、大きめに止めました。』と、医者。 でも、時期早々?で、抜糸するそばから、傷がひらいで、そばで、見てた、看護婦さんは、『あれあれ?? お~~。』って、へんな音を発してた。

昔の、へんな手術で、針金みたいので、固定されてて、3本の針金の先っぽが、ひじのちょっと下から、皮膚のそとに飛び出してた。そのまま固定。 あとあと、その針金を、外から、引っ張って、抜くために、また、病院に行った。。。 (昭和40年代の、町医者の、技術。。だったんでしょうねぇ。)

ギブスを取った後も、ずっと、リハビリで、マッサージに通い、『手術をしないで、治す方法もありますが、それでは、完全に治らないので、手術をしましょう。。』という話だったから、完全に直るのかと思ってたら、結局、1年くらい、リハビリしたけど、完全には直らなかった。 (今でも、私の左腕は、右腕と同じようには、伸びないし、曲がりません。) 

またまた、しつこくレポートしましたが、結局、そんなこんなを心配した、両親の、『水泳部入部』の、助言だったのです。 大して、泳ぎが上手くなかった私が、水泳部に入部したのは、こういう事情でした。。(でも、いい仲間、後輩に恵まれて、一つ下のスイミングたたき上げの後輩にバタフライやら教わって、楽しい3年間でしたが。。。)

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今は、水泳部に入ったこと、そこから、今へと、人生が、展開してきたこと、嬉しく思っています。

父親は、『水泳部に入ったら、何でも、好きなもんを買ってやる。』 といって、私に、アメリカの星条旗の模様の、一般サイズより、一回り大きなバスタオルを一枚買ってくれました。 水泳部に入ったご褒美で、父が、直接、買ってくれたのは、このタオルが、最初で最後でした。 (なんと、このタオルは、燈が、お気に入りで、小さい頃、ずっ~と使い、ほっろぼろになっても、捨てられず、今でも、わが家の、タオルが収納されている棚の隅っこで、36年たった今も、眠っています。)

もちろん、さらにさかのぼったら、私の両親が出会わなければ、私は存在せず。。って、壮大な、命と、エネルギーが全部つながっている話になっていきますが、、

でも、私の人生が、大きく、シフトして、動き出したのは、あの、骨折の日だったのです。
1973年、2月1日の事でした。。。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

なが~いフリ。
でも、おもしろかったです。

“+”

小粒 (こつぶ) さんのコメント...

辛抱強く、読んでくれて、して、おもしろいと思ってくれて、ありがと~。自分でも、読み返したら、入院、手術の話は、マンガみたいに、脳裏に浮かんで、おもしろい。。か。も。