今週は、日曜日が、お仕事だったので、この日は代休。
お天気も、良く、ちょっこし、用事があって、コックレーンまで、ドライブ。
一人で、音楽を聴きながら、交通量の少ない道を、お気楽ドライブ。
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ふと、25年前が、よみがえる。
当時、メンタルチャレンジの、子供達の施設指導員だった私。
お休みは、週に一日だった。 3人の担任で、一つの生活クラスを担当。 3坦が、変わりばんこに、月、水、金に、一日づつお休みをもらえた。
でも、休みの前の日は、A勤 (早番。午後3時まで。) 休み明けの日は、B勤 (午後1時から)だったので、実質は、2日休めるような、感じだった。
勤務は、5タイプあって。。。
A勤 - 早番。 6時から、午後3時。
B勤 - 遅番。 午後1時から、9時。
C勤 - 日中番、9時-5時 (土、日で、子供達が、作業、学習がなく、日中生活区で過ごす日)
D勤 - 断続勤務 6時から、10時、中抜けして、午後4時から、9時
E勤 - 夜勤、夜9時から、朝6時
毎月、フロアーの主任から、勤務表を、もらう。 月に2度は、夜勤があって、B-E-A勤、ぶっ通し。。ってことも、(午後1時から、翌日の午後3時まで、現場張り付き) 2月に一回くらいのペースであった。
そして、毎月一回は、3坦と、主任と4人での、ほぼ貫徹状態での、ミーティングがあった。
若かったから、出来た。。体は疲れたけど、一瞬でも、時間が空いたら、たったの、10分でも、熟睡できるという、スイッチオン、オフ自由自在の体に、1年くらいで、なった。
担当している子供達がそれぞれに抱えていた、身体的、知的、情緒的、家庭的な、問題が、それこそ数かぎりなく、多様性にあふれて?いたので、貫徹のミーティングでも、3人の、アプローチ、解釈、理解、をすり合わせ、次期間への、目標や、タッチを統一するための、話合いが、尽きる事はなかった。
日々の記録付けがまた大変だった。上に書いた勤務時間には、記録を書く時間は含まれておらず、子供に関わる現場にいる時間だったので、現場から、『上がる』と、今度は、職員室で、グループ記録と、ケース記録を、毎日、これでもか。。と言うほど、書いた。 (記録のない仕事は、仕事ではない。と強く職員に、染み入り渡らせていた、指導課長だった。)
コンピューターや、日本語ワープロなんて、職場にない時代。 全ては手書き。
それぞれの体調、行動、グループの動き、何かあった際の、こちらからの、アプローチに、実際何をどうして、どう、声をかけたか。。などなど、書くことが多いので、みんな、どんどん、字が小さくなった。B勤の時は、お風呂、着替え、歯磨き、の後、時間になったら、子供達を居室に送り、消灯して、寝付くのを確認する必要のある、子供の居室の外の廊下に、真っ暗な中、小学校で子供が使うような小さな机とイスをおいて、そこで、ペンライトで手元を照らしながら、記録書きをしてた。。。(そうしないと、何時に上がれるか、計り知れなかったので。。)
世間で、障害がある子とレッテルを貼られていた、それも、重度障害の子供たちが、問題行動があろうが、家族との不和があろうが、発作持ちであろうが、それはそれは、みんな、いとおしかった。
彼らの、命の炎は、私と一緒。同じ温度があった。。命をはぐくむ、重さと責任と使命感のある、重くて、辛い、でも、好きな仕事だった。
それでも、真っ暗な中の、左手ペンライト、右手で、ミニミニの、字で、記録をかりかり書いている自分に、『いつまで、私は、こんな暮らしをするんだろう。。』って、声が、何度も、何度も襲い掛かってきた。
週6日(5夜)は、施設貼り付け。80人近い、職員は全員、緊急事態に備えて、施設の敷地内の、寮か、家族宿舎にすまなくてはならない決まりだった。夜に、アラームがなったら、すぐさま、全指導員が駆けつけれられるように。。
要するに、お休みの日しか、その場を長時間、離れることは許されていなかった。
だから、お休みで、実家に向かって、はたまた、横浜で、友達に落ち合うために、ドライブしている自分がいると、『きゃ~~~~。お休み~~~!!!』って、一人で、車の中で、叫びたいくらいだった。(叫んでたのかも。。) このときの、なんとも言葉には、表しにくい、とてつもない、開放感が、最高だった。どれだけ、一人のドライブが、大好きだったことか!。
そして、実家に帰ると、熱いお味噌汁が、この上なく、涙がでるほど、嬉しかった。
なぜなら、施設に居る時は、食事は、全て、キッチンで、栄養士さんと調理師さんがちゃんと、こしらえてくれたけど、フロアーに、コンテナで上げたあと、子供達と配膳して、ご飯も、お味噌汁も全部、配膳担当が器にもってから、全員を迎えにいき、トイレ、手洗いを済ませ、食堂に戻ってくるので、暖かい、ご飯と、お味噌汁が、待っていてくれることは、なかったから。(それに、熱いと、食べられない子がほとんどだった。)。。。。。
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なぜか、青空と、広々とした、アルバータの、平原を走りながら、走馬灯のように、ドライブと、お味噌汁で、感じたお休みの日の思い出と、感覚が、体を走った。 そしてここにも、あの時と同じか、いやいや、それ以上の、開放感が満ちていた。
あのころは、Mazdaの、水色のファミリアに乗っていた。 ユーミンか、サザンのカセットテープで、音楽が流れている事が多かった。
今日の私は、Mazdaの、黒の、CX-9に乗っていた。 いきものがかりと、ドリカムと、Exileの、CDが、かかっていた。。。。。
2 件のコメント:
私も当時が蘇りましたよ。あの頃は若かったとしかいいようがない生活でしたねぇ。一日があっという間で、月に一度の給料日もあっという間に来てしまったのを覚えてます。
やはり、夜勤明けのお休みは寝るのも惜しく、ドライブやショッピングに出かけましたよ。
最近、体力の衰えを感じるお年頃。突然のめまいにも襲われます。当時のことを思い出すと、まじでめまいがしそうな今日この頃です。
Fumi-chanへ。
ホントにね。もう、貫徹なんてしちゃったら、その後、何日体調を崩しちゃうか、計り知れない~。。。でも、昔は、パソコンも、携帯もなかったし、お休みの開放感は、格別だったかも。。
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