2017年4月16日日曜日

老いて行くこと。


人は誰でも、生まれ落ちたら、全員みんな一日づつ時間を過ごしそれがひと月一年と、地球に生まれ生きづいてる限り、地球号の旅と一緒に、太陽の周りを一年に一周づつめぐり歳食っていく。

人生の時間。

ワクワクするとき、そうでもない時、楽しいだけのこと、楽ちんなこと、難しい事にチャレンジせざるを得ない時間、目には見えない感覚エネルギーに、打ち砕かれたり。とにかく、千差万別、色んな事が起こるのがこの人生。

自分の色んな(能力、体力、精神力、叡智の)限界って壁にばちばちぶつかりつつも、上手にその限界の壁を少しづつたたいているうちに、次の次元への扉がふと開いたり。。

苦労は買ってでもした方がホントにいいのか。

そもそも、何が人生でどうだったら良いんだか。

良し悪し評価、勝ち負け争い、物、金、地位の奪い合いにいそしむ人類様は、自己防衛本能が暴走しても気づかず(自分はどうあれ正しいと思い込みたいパワー)、本来は、生まれつき、いたわりや思いやり、小さな愛情(人間愛)を心の泉がもともと沸々噴いている。。って事を忘れがち。いや、気づいてないようにすら見える。

心(っていう目には見えない袋)に、外部の解釈(他人の言葉)やそれを引き金に巻き起こった、感情のよりをためすぎて、泉の栓が詰まってしまっている人が多々いる気がする。そういう人ほど、他人から愛されることに飢えている。愛される自分を探してる。(愛せる力を発揮してない。)

泉の栓が詰まっちゃうと、もう、世間の汚れがたまっても、内側から己の力では洗浄できず、ただただ、心は汚れて重くなって行く。そして、己の汚い所にはふたをして、気づかないように、自己防衛しているうちに、本当に本質部分での良し悪しがわからなくなってしまう。


生きている限り、老いて行くこととは、仲良くせざるを得ず、さらに、そもそもこの世は、思い描くようになるようにはできていないようだ。

でも、目には見えない魂に宿る温かさや、人間愛っていうふつふつあふれる心の泉のエネルギーは、自らその源からの栓を、詰まらせてしまわなければ、本来は枯れる事はない。

(ほんとです。なぜなら、宇宙を生んだ大本のエネルギーとつながってるから。人類的な計測可能な、単位上での枯渇はあり得ない。)

それなのに。。。個人、家族、仲間、同僚、友人、国民、異文化異国の人々。 

人と人の間の人間愛の泉(人の心っていう袋の中にある)が、目詰まりし始めた。

ねえねえ、私、ねえねえ、あなた、人の事を言うのはやめて、自分の心の中、綺麗にしようよ。あったかい泉にしてみようよ。

外から(他人目線からの)成果や評価を期待したり、小さな自慢話で、日々を一杯にしたり、副産物の感情集めて心の袋一杯にするのはやめて、自らの泉の源から、湧いている小さな愛で、心を満たそう。

そして、余裕が出来たら、それを、だれかと分かち合おう。

そうやって、生きて、老いて、行きたいです。


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