人間は、やっかいな動物です。
高等頭脳を持ち、火を操れるようになり、そして、現代は、技術の進化と発達で、遺伝子さえも、操作できる時代を構築してきています。
でも、人間が、心という感情の器を持っていることを、自覚できるようになって以来、人はその器の中に、ありとあらゆる現世で起きる、事件を、何が事実で、何が真実かを、検証するよりも前に、感じたまま、それぞれのレベルで、個別に解釈し、時には、想定(きっとこうに違いない。。)のみに基づいて、決め付けて、その己の決めつけから、バブルのように発生する、怒り、憤慨、悲しみ、憂い、苦しみ、嘆きを、喜びや、楽しみよりも、数多く、そして、深く、刻み続けてきている動物のように見受けます。 (人間には、アカデミックな刺激よりも、感情が揺さぶられた刺激により、記憶が、脳に刻まれる。。ってのは、今は、科学的にも証明されているらしいけど。。)
その器が、自分では、コントロールしきれない量の感情を溜め込み、膨れ上がって身動きが取れない状態の時に、些細な刺激で爆発したりするんじゃないんでしょうか? この爆発は、脳が知的に、処理できるかいなかの、能力とは、実は直結していないようです。。
昔、メンタルチャレンジの子供達と暮らしていた時も、繊細すぎる、すぐにコントロールを失う、そして、爆発し、乱暴したり、破壊行動に出る子が沢山いましたが、それは、彼らの、知的な脳の働きの不具合から来るというより、私ごときのレベルでは、語りつくせないほどの、悲しみや苦しみや、怒り、嘆きが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた彼らの、小さな心に、源があるように、感じました。。
一般的には、健常といわれている子供達に、学生時代水泳を教えていたときも、親御さんに、レールを引かれ、日々、手を引っ張られて、塾に、サッカーに、お絵かきに、英語に。。と、めまぐるしく市中引き回しされていた子供達が沢山いました。彼らの、心も、忙しい頭とは別に、時に空っぽだったり、寂しさや、辛さや、意味ある言葉には、出来ない世界での、『いやいや!』の叫びで、一杯になってしまっているのを、見ることがありました。
私は、子供は、生まれた時に、全ての種を持ってこの世に誕生すると考えています。(そのうちの、どの種から、どのタイミングで、何の花が咲き始めるか。。って話は、またまた壮大なので、今日省略。)
でも、心という器だけは、生まれた時は、目に見えない生命エネルギーの、『輝き』だけが、つめられた状態で、誕生するんじゃないかと思うんです。
言葉を変えると、その後の、人生の時間、経験が作る感情が、その器に流れこみ、たまりだし、無垢なる輝きは、押し出されていく。
最初は、経験も、体も小さいので、この心という器自体が小さいんです。
この小さい器を、一番最初に、『喜び、笑顔、温かさ、心地よさ』で、チャージしてあげる事が大事です。
一度、このプラスのエネルギーで、小さな心が一杯になった経験のある子供は、人との心地よさの上に、その後の感情と人格を、育み載せていく事になります。
最初に、この小さな器が、『怒り、怒鳴り声、冷たさ、無関心、不快感』で、チャージされてしまうと、その後の、プラスのエネルギーチャージの、キャパシティーが少なくなってしまうようです。。
(あ、このケースの場合も、大人になってからでも、気づきのエネルギーが、プラスの世界に全てを転換してくれることもあるのですが、この話も、壮大なので、今日は省略。)
どんなに、先端技術が進んでも、脳や、肉体が出来ることが、ロボットや、医療技術で、いかに変化していこうとも、この『心』という器の、性質と、働きは、太古の昔から、あまり、変化していないようです。
変化していないどころか、相手の本心も確認せずに、『きっと、領土が欲しいに決まっている』『きっと、この油田の利権が欲しいに決まっている』『きっと、我らを支配したいに決まっている』という、全て、相手の懐に飛び込んで、心を割っての会話もせずに、(たぶん、言葉の壁を、心の壁にしていたに過ぎず、その壁に体当たりする勇気がなかっただけなんだろうけど。。) 御互いの心の探りあいと、想定だけで、戦略が決められ進行してきてしまった。。。。としか私には見えない、国家間同志の、戦争や、憎しみや、人類が構築してきたマイナスの歴史があって、生まれてすぐさま、この小さな心の器に、『この憎しみを忘れるべからず。。』みたいなメッセージを、何世代にも、渡って、刻み継承してきた。。という、道筋を、つけて来てしまっているとしか、見えない場所もある。
(この循環は、なんとしても、早く絶つ勇気を持たないと、次なる次元の地球人は誕生しにくい土壌が、継承され続けるだろうな。。。)
**********************
今日、実は、ものすご~~~~く、久しぶりに、私の気持ちに、ぴたっと、寄り添ってくれる人に、出会いました。 私たちの、コンファレンスティームの、トレーニングセッションのために、ナイアガラから来てくださっていた、講師の方でした。 世界の名峰にも、数多く登頂したことのある、そして、彼女の地元では、35人もの、マネージャーという肩書きの人を束ねてお仕事をしているという、ばりばりのキャリアウーマンの、肩書きの方でした。
肩書きとは裏腹に、人の気持ち、迷い、ぶつかり合い、相互不理解。。そういう壁に、どう向き合い、どうそこを、乗り越えていくか、心を開き、どう御互いを認め合い、支えあい、分かち合い、そして、仕事として、目標を、ティームレベルで達成していくか。。。を、深く考えさせる、そして、話し合う場をくれるセッションでした。
進め方、話し方、そしてその内容も、とてもよかったのですが、何より心に、響いたのは、それぞれの、立場、問題に、同じ目線で、それぞれの気持ちに寄り添い、心を開き、耳を傾け、受け止めてくれた事。
今日のこの時間を無駄には絶対にしない。 これからプラスの変化を必ず巻き起こすと、心強い言葉をくれたこと。
仕事の話をしているのに、彼女の、個人的な深い暖かさが、響きました。
私も、こんな人になりたい。 反面教師の多い世の中、心が温かくなって、正面切って、目指したい素敵な人でした。
多分、人間は、誰かに、『理解されている。』と、感じる瞬間が、一番幸せなのかも知れません。
そして、誰かを、理解しようと向き合う事が、もう一つの幸せなのかも知れません。
以前の記事で、
『幸せは、何時も自分の心が決める』という、詩を引用してきて、自分でも、そう、決め付けていた部分があったんだけど、『決める』んじゃなくて、『感じる』 幸せの方が、多分、何万倍も、パワフルです。